神道の死生観について

神道(日本人)の「死生観」は、

 

 肉体という物質に産霊神(むすびのかみ)から魂を付与してもらう

 =これを「誕生」と捉える。

 

 魂が産霊神の元に帰り、家の守り神になる

 = これを「死」と捉える

 

この魂は祖霊(たま)であり先祖代々の霊魂。

 

その祖霊を受け継いで、誕生という名でこの世に付与されている。

 

つまりは、

 

 自分の先祖たちの魂である祖霊から、神様の力によって新たな肉体に魂を入れてもらい

 現世に誕生する。

 

 死んだら肉体から魂が抜けて神様の元に帰り、子孫へつなげる祖霊となる。

 

 肉体とは霊魂を宿す入れ物であって、主とするのは霊魂

 

と、自分は解釈してます。


死後の世界

死後の世界は、古事記・日本書紀のなかで

 

 黄泉国(よもつくに)

 常世の国(とこやみのくに)

 根の国・底の国(ねのくに・そこのくに)

 

など、これ以外にもいくつか「あの世」

思われる世界の表現がある。

 

 

黄泉という言葉については「黄泉返り(よみがえり)」=甦るの語源となったことなどから耳にしたことがあるかもしれません。

 

また、根の国・底の国という言葉は、神社でご祈祷の際に行われる大祓(おおはらえ)の儀式で唱えらえる内容で、

 

「根の国~底の国に坐す~ 速佐須良比売と云う神~うんぬん…」

(ねのくに~そこのくに に にます~ はやさすらひめ というかみ~…)

 

と読まれていますので、何となく耳にしたことがある人もいるかもしれません。


国学者らによる死生観

いずれにしても、死後についての世界観は様々な

表現や考え方があり一概に定められないというのが

現状です。

 

ただ、明治以降の死生観に大きく影響を与えたで

あろう、江戸時代の中期~幕末の時代におられた

以下の国学者らによる死生観がよく議論の場に

取り上げられていますのでご紹介します。

 

 

 本居宣長  もとおり のりなが (1730~1801)

 平田篤胤  ひらた  あつたね (1776~1843)

 岡熊臣   おか   くまおみ (1783~1851)

 (時系列順)

 

上記3人の死生観を、ものすごく端的に言うと

 

 本居宣長 : 善人でも悪人でも、みんな黄泉の国へ行く。

        黄泉の国へ行く霊魂のほかに、この世にとどまる霊魂もある。

        生前に立派なことをした人は、この世にとどまる霊魂が国を守り、

        家族を守る働きをする。

 

 平田篤胤 : 死後の霊魂はこの世にある「幽冥界(ゆうめいかい)」にとどまって

        国を守り家族を守る。

 

 岡熊臣  : 人の霊魂は

        「本霊」・「幸魂(さきみたま)」・「奇魂(くしみたま)」がある。

        そして本霊は月夜見国(つきよみのくに)へ行き、幸魂・奇魂は幽冥界

        にとどまって家族を守護する。

 

ここでいう「黄泉の国・月夜見国」と「幽冥界」はイコールではなく、黄泉の国・月夜見国はいわゆるあの世で別の世界とされていて、幽冥界は他界ではなくこの世であり、幽冥界からはこちら側が見えるものとし、こちら側から幽冥界が見えないだけという、同じ空間にあるとされている。

 

 ちなみに神道では あの世のことを 幽世(かくりよ)

          この世のことを 現世(うつしよ) と呼んでいます。

 

他にも、西角井正慶や柳田国男など死後観についての考えがあるが情報が膨大になるので

ここでは記述しないでおきます。

 

なんにしても、共通とされるのは「霊魂」の存在であり、また国や家族を見守ってくれる「守護神」になられるという点。

 

恐らくこの考えが主軸として現在に受け継がれ、

 

 亡くなられた方の霊魂を「霊璽(れいじ)」と呼ばれる依り代に遷し(遷霊)、

 子孫を守ってくださる守護神として家でお祀りする

 

ようになっているのではないかと思います。

 

日本は古来から先祖を敬う先祖崇拝の精神があります。

 

祖先の霊魂が自分の魂に受け継がれていると思えば、自然と先祖崇拝の気持ちになるのでしょう。

 

神道の死生観に関する様々な資料を基にして、個人的見解をだいぶ除いて記述したつもりですが、一概にこれが正しいとは言えませんので参考程度の内容とご理解ください。